はじまり




ざわざわとざわめくカフェ。
それはけして不快な喧騒ではないと僕は思う。
そこで彼女は1ヵ月ぶりに会える筈の恋人を待っている。
…既に2時間はそこにいるけれども。
何故今日恋人と会えるかを僕が知っているのかと言えば、僕が此処の店長で、彼女がこの店開業以来の常連だからだ。
早めに来ちゃった、と言った彼女は多分約束より1時間早く此処に来たんだと思う。
先月のデートの時にも1時間早く来ていたし、その前も、必ず1時間早く来てお気に入りの紅茶を飲んでいたから。
彼女は時折携帯のディスプレイを確認しながら外を眺めている。
年上の彼氏はまだ来ないのだろうか?
いつも遅刻がちではあるが、1時間以上彼女を待たせる事はなかったのに。
この店でアルバイトしてくれている高瀬君も彼女が気になるのか、ちらちらと視線を彼女に向けている。


そろそろティータイムレシピから軽い夕食メニューに店先の看板を差し替えようかという時刻になって、彼女は窓側の席からカウンターへ移ってきた。
「さすがにもう来ないよね。」
高瀬君が看板を差し替えたのを確認してから、彼女はサザンカンフォートのカクテルを注文した。
「電話してみては如何です?」
聞けば苦笑して首を横に振る。
「最近、電話もメールも殆ど返事なかったし。浮気でもしてるのかな。」
手渡したカクテルを半分程一気に飲み干してから彼女は言った。
あまりアルコールには強くない彼女の頬はすぐに赤く染まる。
高瀬君は外が闇に染まるのを確認して店内の照明を絞り、慣れた手付きでそれぞれのテーブルにキャンドルを灯していく。
「…ホントはね、何となく、今日は来ないって思ってた。無理矢理約束取りつけたようなものだし…私、この間彼とすれ違ったの。彼、知らない女の人と一緒だった。」
彼女は、近くに灯されたキャンドルの火を見つめながら言う。
僕が出来る事と言えば、サービスで彼女が好きなイチゴを出してあげることだけ。
昼間ほど混まない店内は高瀬君が手際良くオーダーを取り、料理や飲み物を運ぶ。
「自然消滅狙う人じゃないと思ってたんだけどな。」
カクテルのグラスをキャンドルに翳しながら彼女は言う。
高瀬君からオーダーの紙を受け取り、料理を作りながら彼女の声に耳を傾ける。
もしかしたら仕事かもしれないなんてという慰めは白々しすぎて僕には言えなかった。
「やっぱり私が子供だったからいけなかったのかな。ねぇ、マスター、女子大生なんて、やっぱり大人から見たら子供かしら?」
そう言って歪めた表情は、子供と呼ぶには切なすぎて、大人と呼ぶには何か違和感を覚える。
「どうでしょうか。僕は、何が大人で何が子供だと区別できるほど大人ではないですよ。それに、花燈さんは十分素敵な女性だと思いますよ。」
僕は料理をいつもと同じように皿に盛り、いつもと同じように高瀬君に渡す。
彼女はそれをぼんやりと目で追っていた。
自棄酒をするというわけでもなく、友達を呼び出すでもなく。
「マスターは優しいね。私もマスターみたいな人を好きになれば幸せになれたかな。」
そう言って苦笑する彼女は綺麗だと思う。
けれどその科白の内容に今度は僕が苦笑する。
「僕は店が一番ですから、彼女が出来ても泣かせてしまうだけでしょうね。」
本当の本当に一番というわけじゃないけど、僕は今、この店より恋人を優先する事はないだろう。
店長というのも案外厄介な仕事で、でも僕は望んでそれをしている。
こうして彼女達の話を聞くことも楽しいし、常連ではなくても此処の料理を楽しんでくれるお客様がいれば嬉しい。
勿論、リピーターになってくれればそれに越したことはないのだけれど。

頬杖をついて彼女はずっと料理する手元を見つめる。
これが彼女なりの心のもやもやを消化する方法なのだということは、彼女が遣る瀬無い表情をしている時にいつもそうすることから学んだ。
いつだったか、そういえば、彼女はそれを覚えたのは此処のカフェに来てからだと微笑った。
やがて彼女はゆっくりと携帯を開き、メールを打ち始めたようだった。
オーダーはそれなりに落ち着いて、昼のカフェとは違った雰囲気の店内ではそれぞれのテーブルでワインや料理を口にしながらお客様が談笑している。
それを好ましく思いながら、時折追加オーダーされるワインやカクテルを用意する。
高瀬君もオーダー以外のときはカウンターの脇に軽く寄りかかっている。
昼間と違い、この夜のカフェは店員がお店の中を歩き回るのが好ましくないだろうという彼なりの配慮らしい。
カチリと音がして、花燈さんが顔を上げる。
「お別れのメール送っておいた。」
微笑ってそういう彼女に、お気に入りの紅茶を入れる。
此処は常にお湯は沸かしてあるし、彼女のお気に入りの紅茶はもうとっくに覚えている。
「これは僕のおごりです。」
そっとカップとポットをカウンターに置くと、ありがとう、と呟いて口をつけてくれる。
「此処に居てね、高瀬くんの動きとか、マスターの動きとか見て、店内のざわめきとかに耳を傾けていたら、不思議ね。すーっと自分の中のもやもやが砂糖みたいに溶けていったの。ホントに、少し前までは何で彼が来てくれなかったんだろうとか、やっぱり浮気されてたんだとかすごくすごく悲しかったのよ?」
そう言って肩を竦める彼女は多分、強がっている部分もあるのだと思う。
けれど、それでもそういう気分になったという彼女に僕は嬉しかった。
この空間が少しでも彼女を癒したかもしれないという事実が。
それからまた静かにお茶を飲んでいた彼女は軽い夕食を採ってから帰っていった。
此処の食事は元気もくれるね、と嬉しい言葉を残して。

彼女のようなお客が一人、また一人増えていけばそこはきっと僕の理想のカフェになるのだと閉店後の店で高瀬君に言えば穏やかに微笑んだ。
寡黙な彼がこうして居てくれる事もこの店には欠かせないこと。
そう思いながら、高瀬君と共に店を後にした。