きっかけ




差し出されたケーキに首を傾げる。
注文した記憶のないソレを、マスターはにこにこと彼の前に置いたのだ。
「今日でちょうど一年になるんですよ。」
すっかり馴染みの客になったやや少年の面影を残した青年は、視線を巡らす。
そして自分が初めてこの店に来たのがこういう寒い日だったことを思い出した。

 何となく、気が滅入って。
 何となく、気分転換の外出をしていた。
 何となく、喉が渇いて。
 何となく、その喫茶店に入って。
 何となく、カウンターの端っこを選んだ。

そんなあの時のことがすとんと心に蘇る。
そしてそんな些細な事を覚えていたことに何だかくすぐったい気持ちになった。
マスターはささやかなそういう出会いをとても大切にする人だとは知っていたけれど。
それでもそれが自分に向けられるのは、何だか嬉しかった。
夕暮れの光が、店内を赤く染める。馴染んだ空気に溶け込むような気分だった。

たっぷりのミルクを入れた紅茶。
此処に2回目に来店してから、ずっとこの紅茶だ。
たまーに飲みたくなって珈琲も飲むけれど、でもやっぱりこれが落ち付く。
この場所はもう日常になってしまったけれど、それでも特別な場所だと思った。
日常の中の特別って、何だかとっても贅沢だな、と思う。

ふと、今抱えてる色んなことに思いを巡らす。
ゆらゆら揺れるカップを見つめながら、紐解くように思考は巡る。
行き着く場所は大体同じところだというのに、それでも思考は止まない。
そろそろ限界だ、と警告する自分の中の自分の声を冷めた感情で聴いている。
分かってる、本当は。

けれど踏み出せないのは。
不確定な未来に対する不安、変わらなければいいと思う心。
けれど、それと真っ向から対立する変化への期待もある。
その不安と期待の間で、身動きが取れない。
いつも、そうだ。そのどちらにも偏れなくて、迷って迷って。

カタン、と置かれた淹れなおされた紅茶のポットに顔を上げると、マスターがいた。
「一息入れたらどうですか。」
難しい顔をしていたのだろうか。でもその内容には触れずに。
マスターは目の前のカップも取り上げて新しい物に取り換えてしまった。
折角だからと紅茶を一口飲めば、ほっこりとした気分になって、幸せな溜息が出た。

限界になって壊れてしまうことと、自分から動いて壊れてしまうこと。
その二つは同じ結果でも全然意味が違う。
最善を、選ばなくては後悔する。
けれどその最善とは、何なのか。
機会には恵まれている筈なのに、何故今まで動けなかったのか。

ぐるぐると思考は巡る。
いつまでもこのままじゃいけない。
変わる、時なのだと思う。
けれど、やはり足踏みしてしまうのだ。
変わらない自分に嫌になっても、それも、自分だと知ってる。

伝えるって行為は難しい。
言葉の大事さを知ってる。だから余計に。
そう考えてまた、一口紅茶を飲む。
優しい味のそれは、寛いだ気分にさせてくれる。
波立つ心を、ゆるりと解してくれる。

「マスター、マスターは、この店を開く時、何考えてた?」
ふと、目の前でもうすぐ来る夜のお客の為にグラスを磨くマスターに声をかけた。
マスターは手を止めて、少し首を傾げる。
「そうですね…明日が今日と同じではないと思えるような場所を作りたい、と。」
ゆっくりと言葉を選びながらマスターはそう呟くように言った。

明日が今日と同じではないと思う。
そんな当たり前の事を言われて、今更驚くなんてどうかしてるかもしれない。
だけど、今必要だったのはそれかもしれなかった。
限界に近い、このままでは強制的に訪れる変化より早く。
動かなくてはいけない、とそう思わせる力が、その言葉にはあった。

「マスター、ありがと。俺頑張るよ。」
きっとマスターは何のことだかさっぱり分からないだろう。
だけどマスターは笑って、「頑張って下さい。」と言った。
ああ、やっぱりこの場所は、日常の中の特別なんだと心から思う。
もう習慣になった仕草でカウンターにお金を置くと、店から出る。

ひんやり冷たい空気が頬を撫でて思わず首を竦めるけど。
何だかいい気分だった。
この店から出る時はいつも。
明日が今日と同じではないと、確かに思える。
そんな場所から、俺はゆっくりと歩き出した。