変わる事




「元気ないね。」
ぽんっと肩に手を置かれて顔を上げると、花燈さんが笑っていた。
曖昧な表情で『笑い』の形を作ると、花燈さんは困ったように頭を撫でた。
「今日は花燈さんのおごりにしてあげるから、ケーキでも食べなよ。ね?」
隣に座ってメニューを突き出されて、俺はメニューに視線を落とした。

「あ、いけない!約束があったんだった!」
小さな着信音に反応して花燈さんが慌てて立ち上がる。
「マスター、この子の分今度払うから〜!」
そう言い残して慌しく出て行く花燈さんを、マスターは笑って見送った。
俺の前の珈琲はゆらゆらと湯気を燻らせていて、何だか感傷的な気分だ。

結果は大体予想してた範囲内のことで。
なのに自分だけがそこから歩き出せないような。
変な気分だった。取り残されてしまうような。
時間や、周りに。
鈍感なような敏感なような変な感覚だけが体を支配していた。

「冷めてしまいましたね。」
一口も飲まないまま冷めた珈琲をマスターが引き上げてしまう。
代わりに置かれたのは甘い香りのするホットココアだった。
「仕方ないことなのに、それをずるずる引きずってる自分が馬鹿みたいでさ。」
肝心な部分を端折った俺に気を悪くするでもなく、マスターは穏やかに頷く。

「あったことをなかったことには出来ませんからね。」
マスターの笑顔はいつも本当に変わらなくて、それに俺はどうも弱い。
そう言われると納得してしまう。
「でももう、変わり始めてると思いますよ。」
何が、と聞こうとしたところで、高瀬さんが来たのでそれを飲み込む。

「変わらないことなんて何もないんです。自分が気付いてなくても。」
思いませんか?とマスターは首を傾げる。
俺はピンと来なくて、でも曖昧にココアを口に運んで誤魔化す。
「だって、自分が変わらなくても周りは変わる。そうしたら見方も変わる。」
ね。と笑うマスターはやっぱり、いつも通りの笑顔。

変わることも変わらないこともこうやって柔和に受け入れられる日が来るだろうか。
明日と今日が違うものだと思えるようにと開いた店で、変わらずにいるマスター。
それって実はすごいことのようにも感じる。
それとも俺も、マスターが違って見える日が来るのだろうか。
「変化が見えないからと焦る必要など何処にもないんです、きっと。」

いつも通りカウンターにお金を置いた俺に、マスターはそう呟いた。
その声は内緒話するように、少し潜められて何だかくすぐったかった。
そうして出た店の先、駆け抜ける風は穏やかに春を彩る。
新しい生活が生む疲れという澱を濾過する必要があったのかもしれないと思う。
歩きだした俺は、店に入った時との心境の変化には、やっぱり気付いてなかった。