昼下がり




随分振りに見た顔に、マスターは思わず来店を歓迎する声を止めた。
それに対して苦笑を零したのは客の方だ。
カウンターの入口から一番遠い位置に座る。
かつて、毎日のように来ていた時もそこに座っていた。
「お久しぶりですね。」
マスターはカランと氷の音を立てながら水の入ったコップをカウンターに置く。
「うん、久々に来ちゃった。」
まるでもう来るつもりはなかったかのようなその言葉に、マスターは苦笑する。
けれど、悪気があるわけでもなければ、来るつもりがないというわけでもないのだ。
ただ、タイミングを掴めない時、というのが人にはあって。
特にこの客の場合、こうして長期間来ないと思ったら頻繁に来るときもある。
そういう種類の客だった。
「お忙しかったですか?」
社交辞令として、しかし気遣うように告げられた言葉に、客は首を傾げる。
「忙しくない事はないけれど、忙しくはなかったかなぁ。」
客は曖昧な言葉を零しながら、メニューをパラパラとめくる。
「でも、自分の為に時間を使う余裕はなかったかも。」
メニューを指さして注文しながら、客はそう言った。
マスターは注文されたものを用意するためにケトルに水を入れる。
『いつどこで誰といても、楽しくても辛くても、私は孤独感から解放されない。』
いつか、この客が言った言葉をふと思い出す。
しかし口に出さずにいた。きっとこの瞬間もそう、なのだろうから。
わざわざ意識させるようなことではない。
ケトルの口を眺めながら、客はぼんやりとしている。
この空白ともいえる時間に、この客はこうして訪れる。
「どんな状況でも楽しめるけど、それでも、疲れる時は疲れるよねぇ。」
ぽつんと、やはりケトルを眺めたまま呟かれた言葉に、マスターは頷く。
「そうですね。ふと気付いた時に疲れている自分を自覚すると不思議な感じです。」
「マスターでもそんなときあるの?」
心底意外、というように客は視線をマスターに向けた。
マスターは苦笑して、「僕だって人ですから」と答えた。
「そういう時、どうしてる?」
「そうですね。明日のことを考えます。明日過ごしたい自分を。」
シュンシュンと音を立てるケトルのお湯をカップに移してまた火に戻しながら答える。
「成程ね。真似できないなぁ。」
マスターの手元を眺めながら、客は苦笑して言った。
「それぞれに過ごし方はありますからね。」
人好しする笑顔でマスターは言った。
んーと曖昧な返事をして、客は何とも複雑な表情をする。
手際よくケトルの火を止めてポットにお湯を注ぐ。
葉が膨らむ前の独特の香りを蓋を閉めてポットに閉じ込めると、客は外を眺めていた。
「あんなにたくさん人がいても、やっぱり一人なんだよねぇ。」
その言葉で、やはりこの客は拭えない孤独感を抱えているのだと知る。
けれど、それを癒すことは出来ないマスターは、ポットに視線を注いだ。
自分に出来るのは、おいしい料理を出すことだけなのだから、と。
「いい香り。」
ポットからカップにお茶を注ぐ音で客は視線をカウンターに戻した。
「おいしいものを誰かと味わうのは好き。」
出されたお茶を一口飲んでから、客は言った。
マスターにとって、それは幸せな一言だった。
心が籠っているものというのは、等しく何かを相手に伝えるものだ。
だから、きっと客もそのお茶に確かに、癒されている。
梅雨入り前の、昼下がりのひととき。優しい、時間だった。