やくそく




「よう。兄貴。」
ざわざわと好ましい喧騒を割って入ってきたのは、僕とは似ても似つかない、けれど正真正銘僕と血を分けた弟。
「久しぶりだね。」
肉食のケモノのような彼は、物音一つ立てずカウンターの椅子に落ち着く。
既に陽は傾いている時間だから、きっと珈琲よりはお酒がいいだろうと彼の好きなお酒をいくつかチョイスする。
こうして誰かの好みを知ってその人に合わせたものを作ることはとても楽しい。
彼はカクテルが出来上がるまで僕の手元を見ていた。
「兄貴の作る酒は丁寧な味がするな。」
一口飲んで、彼はそう言った。
「そう?気に入らなかった?」
聞けば、そういう意味じゃないと笑う。
「ちょっと小腹減ったんだけど、何かある?」
悠然とした佇まいなどには似つかわしくないその発言が可愛いと思うのは兄の欲目だろうか。
「注文が入ったから、一緒に作るよ。」
そう言ってフライパンに油を注げば、その動作を彼の目が追う。
昔も、こうやっておやつを作る僕の手元を嬉しそうに眺めていたのを思い出した。
両親を事故で亡くし、年の少し離れたこの弟と僕は二人で生活していた。
それは今も続いているのだけど。

「高瀬君、これお願い。」
出来上がったパスタを差し出せば、高瀬君がお客様のところへ運んで行く。
そして、もう一皿を目の前の弟に。
「サンキュ。」
そういって嬉しそうに笑う表情は小さい頃から変わりない気がする。
いただきます、と行儀良く挨拶をしてから食べ始める。
その仕草はやはり、彼の風貌からは少しアンバランスに見える。

弟から視線を外して店内を見回す。
高瀬君がカフェからダイニングバーに店を塗り替えていく。
一つ一つのテーブルに蝋燭を灯し、照明を絞る。
いつから彼に任せるようになったか、もう覚えていないけれど、彼はそれを実にいいタイミングでやってくれるから、安心して任せていられる。

「ごちそうさん。」
早々と食べ終わった弟の前からきれいになったお皿を下げる。
「お礼に一曲弾いていく。」
カクテルを飲み干して、弟は立ち上がりながら言った。
特に約束したわけじゃないけど、弟は必ず此処で食べた後一曲弾いていくと言う。
「一緒に弾こう。」
弟はいつもふと思い立ったように誘う。僕は頷いて高瀬君にカウンターを頼んだ。
店の隅に置かれたピアノと、たまにこうして遊びに来る弟の為のヴァイオリン。
こうして弟に誘われなければ自分で弾く事は稀だけれど、弾く事はそれなりに楽しいと思っている。
「何を弾こう?」
座った椅子が少し軋んだことを感じながら、僕はピアノの蓋を開ける。
「いつもので。」
機嫌良くバイオリンを取り出し、弟はそれを肩に担いだ。
そして、僕のピアノの音を合図に流れるのはお決まりの"Rainy days and Mondays"。 今日は雨ではないけど、奇しくも月曜日だと、旋律を辿りながら思った。
この店は特に定期的に生演奏をするわけではないから、BGM代わりのようなものだけど、それでもお客さんは生演奏だと気付くとしんと静まり返る。
どちらかと言うとカフェ向きかもしれない音楽だったけれど、まだ僅かに夕陽を残したこの時間には相応しい気がした。

たった一曲だけの演奏。
プロでも何でもない演奏に、お客さんはぱらぱらと拍手をくれた。
弟は優雅に一礼すると、バイオリンをケースに仕舞って、元の位置に仕舞いこんだ。
僕もピアノを仕舞って鍵をかけて、カウンターの中に戻る。
鍵をかけるのは、以前子供がそこで遊んで指を挟んだことがあって、その時以来、弾かない時は鍵を掛けることにしてる。

「じゃ、行くわ。また家で。」

弟は水を一杯飲んでから、そう言い残して夜の街へと消えていった。
僕が帰る頃にはきっと家にいるのだけど、何だか弟にはとても夜がよく似合うと思う。

閉店後、清掃をしている時高瀬君が演奏がお客さんに好評だったと教えてくれた。
僕の演奏が誰かの心に響いたのなら、またたまに弾いてもいいかもしれないと思う。
僕はこの店で少しでも多くの人に居心地よく過ごして貰いたいから。
そして、僕は高瀬君に正式な従業員にならないかと話をした。
これは以前からずっと考えていた事で、高瀬君はまだ大学生だから言うのを躊躇っていたのだけど、彼は一も二もなく頷いてくれた。
来春には卒業するから、卒業したら正式に勤めると約束してくれて、僕はとても幸福な気分だった。