「…何もない時に来るのは珍しいな。どうした?」
窓から外を眺めたまま振り返らず、黒いアオザイのような服を身に纏う小柄な人物は部屋への来訪者に問掛けた。
小柄だから女性だろうか。おおよそ性別を判断するべき要素を含まないどちらとも取れるような声であり、顔立ちである。
「何と無く…虫の知らせみたいなものを感じまして。いけませんか?」
美の女神さえ見劣りしそうな美貌の主は、灰銀色の髪をさらさら揺らして首を傾けた。
「虫の知らせで病院を空ける院長など訊いた事もないがな。」
苦笑混じりに皮肉ると、美しい医師はおっとりと笑った。
「でも、折角足を運びましたし、土産話になるような事でもありませんか?」
物腰の柔らかい声の問掛けに、その黒衣の人物は初めて振り返った。

「真実が来たよ。」
「…ほう。珍しいモノが…」
目を細めて、医師は言葉を止めた。
視線の先の人物は在らぬ方向へ視線を向け、気にも止めていないようだった。
「…左目は、どうしました?」
僅かな沈黙の後ようやく静かな声が紡がれる。
少し動揺を交えたような、声が。
視線の先の人物の左目が、銀色ではなく、灰色に変色していたからだ。
「真実にくれてやった。」
大した事でもないと言う風に答え、その眸は又、窓の外を見始める。
「見えてるんですか?」
「少しだけ。…真実を映すようになった。真実が対価に置いていった。」
何を考えたのか探れずに医師は黙した。
これ以上の問いは無駄だと、その付き合いの長さから来る彼の知識が教えている。
「痛みますか?」
「痛むなら会いに行ったよ。私は痛みに弱いんだから。」
痛まし気な美貌とは対照的に患者たるその人物は飄々と夜空を堪能している。
「…微妙なところですけど。」
ぽつりと呟かれた言葉は、患者に届いたかどうか。

「これうちに届いたけど、貴君の字だろう?」
暫くの沈黙の後、突然思い付いた様に机の引き出しを漁り、一枚の古い紙を取り出しすい、と机に滑らす。
医師の繊手が拾い上げたそれは、端が黄色く変色し、万年筆らしい字が滲んでいる。
「このカルテ、丁度必要になった所でした。」
どうやらカルテらしいそれを暫く見入っていたが、医師は細やかに微笑を零した。
ただ、対象者は見ていなかったのだが。
美に対する好奇はないのか、また空を見上げている。
「大切な患者が来るから、戻った方が良い。」
何を思ったか、ぼんやり放たれた呟きの直後、何処からか鈴の音が聞こえた。
「そうみたいですね…帰ります。」
「ああ、塔を出て右にある門を抜けた方が早いよ。」
「分かりました。では、次の検診の時に。」
「気を付けて。」
ひらひらと手だけ振って、やはり空を見上げるその人を置いて白い医師は静かに去っていった。

「よく分からない人ですねぇ。」
カルテを眺めながら呟かれた、苦笑混じりの声は、言われた通り右側の門へそっと消えた。



「虫が知らせたんじゃなくてカルテを取りに来たんだろうに。」
ようやく夜空から視線を外して翻された言葉を、誰も知らない。