霜月:秋桜




けして行き慣れている訳ではない場所に、青年は足を踏み入れた。
月に一度の贅沢と言えば人は笑うだろう。
類多ある娼館のひとつだった。
「いらっしゃいませ。先月ぶりで御座いますな。今日はどの子になさいます?」
招待状さえあれば例えどれだけ見窄らしい客でも丁寧に招き入れる支配人は、月に一度しか訪れぬ青年を覚えているようだった。
一張羅に身を包み、やや緊張した面持ちで青年はぎこちなく一人の名を伝えた。
手にした粗末な花を笑うことも無く、支配人は恭しく一礼し、近くの男に案内を命じた。

「ボンジュール。」
流麗なフランス語で出迎えたのは、黒髪に常緑色が印象的な少年だった。
エスニックなようで、北欧系の血筋のようにも見える不思議な顔立ちだった。
何故、このような場所にいるのかを問う程の仲ではない。
月にたった一度、こつこつと働いた金で一日だけ夢を見るこの行為も、まだ片手で足りる回数しかこなしていない。
青年は、手にした花を差し出すかどうか悩んだ。
咲いているのを見たときは確かに、この少年を想ったのだ。
けれど、此処に来て、少年を見たら忽ちそれは間違いだったのではないかと思う。
自然な美は此処にはないのだ。此処は娼館なのだから。
青年は己を恥じた。己の、不用意な想いを。
「それはオレに?」
悩んでいる間に近付いた少年は、少し首を傾げて見せた。
「あ、ああ、うん。」
うろたえながら青年は答え、そして差し出した。
野草独特のたおやかさと、頼りなさで、花は手の中でふらふらと揺れた。
「メルシー。」
にっこりと笑って少年はそれを受け取ると、丁寧に茎を少し切り落として花瓶に挿した。
青年は手持ち無沙汰にそれを眺める。
「座ったら?」
花瓶を片手に戻ってきた少年は、可笑しそうに言った。
それを聞いて慌てて、青年は傍のソファに腰を下ろした。
毎日毎日働きづめで気の利いた話題など在ろう筈も無く、青年は俯いていた。
暫くそうしていたが、少年は何も話さない。
そっと視線を上げると、いとしげに花を見つめる横顔があった。
その横顔には、薔薇や百合のような華麗な花よりも、野草のような慎ましやかな花が似合うような気がして、青年は漸く安堵した。
あの日、自分が見つけた少年は、間違いなくこの人なのだ、と。

それは、晴れた日の午後だった。
青年はいつものように仕事をしていた。
配達業である。
彼の配達区域の中に娼館があった。
その前を通りがかった時、窓を開け放った少年が見えたのだ。
午後の穏やかな陽光を浴びた少年は、窓の中よりも野にいる方が自然なように見えた。
気ままに、自由に野に生きるような素朴な美しさがあった。
青年は、駆り立てられるようにその場を後にした。
少年に会わなくては、という衝動的な思いだけに支配されて、青年は雇い主に紹介状を願い出た。
そしてその夜に、有りっ丈の貯金を下ろして、その門を叩いたのだ。

それから数ヶ月経つ。
娼館に来ながら指一本触れない自分を少年はどう思っているんだろうか、と青年は思った。
その上、気の利いた楽しい会話も出来ず、先月だって、殆どはこうして沈黙の内に深夜になり、そのまま朝を迎えたのだ。
少年は特に何かを喋ろうとはせず、じっと隣に座っていた。
青年が持っていた花を、見つめていた。
やはり、少年には、この娼館にある虚飾の美しさなど必要ないと強く思った。
自然の美で十分なのだ。
陽光、緑、湖。
そういう中でこそ、少年は美しいと思った。
しかし、自分にはどうすることも出来ない。
一人で暮らすのがやっと、月に一度の最高の贅沢がこの一夜なのだから。

その翌月、青年は少年の一夜を買うことは出来なかった。
身請けされたのだという。
二度と会うことは叶わぬと知り、がっくりと肩を落とした青年に、小さな封筒が差し出された。
中にはあの日の花が入っていた。
しおりにされて。
確かにあの瞬間、少年は青年を想っていた。
その事を知り、青年は愕然とした。
しおりには異国の言葉が記されていた。
『ありがとう。幸せに。』
その言葉の意味を青年は知ることは一生叶わなかった。
それで良かったのかも知れない。
もう少年に会える日は来ないのだから。
しおりの中で、少し色褪せた黄色い秋桜だけが思い出のように美しかった。



黄花コスモス「たおやかさ」「野生の美しさ」「自然の美」