文月:蓮




蒼月の下、涼やかな初夏の庭。
誂えられた蓮の花が艶やかに立ち上がる池の畔に二つの影。
笛の音が静寂に寄り添う。
しゃん、と控えめに重なるは鈴の音。
鈴の音には舞が伴い、夜を彩る。

鈴の音がやがて静寂に溶けると、ぱちぱちと手を合わせる音。
闇に溶けるように、雅を愛でたる唯一の観客は口を開いた。
「見事だった。」
その声にふわりと舞い手が優雅に一礼し、その拍子にまた鈴が軽く音を立てた。
「酒は好かんのだったな。」
杯を置くと声の主は手慣れた調子でお茶を淹れ始める。
それを見て舞い手は、笛を奏でていたもう一人の横に座した。
間もなく饗されたお茶を飲み、ほう、と一息。
「美味しゅう御座います。」
言って微笑めば、唯一の観客は薄く笑って再び杯を傾けた。
それから他愛ない会話が場を染めて、夜は更けて行った。


数日後。
同じ場所であの舞い手が佇んでいた。
俯き、何かを待つように。
空から忌まわしく赤き月が池にその身を映していた。
ザザザ。
風もないのに池に漣が立ち、赤き月は波に歪む。
『ハハハハハ。』
波音に紛れて高笑いが聞こえる。
俯いていた女はゆるりと顔をあげた。
『女、光の加護を受けているな?』
『イルナ?』
声はひとつではなかった。
先より更に激しく立つ波が立てる声なのだろうか、忌まわしい声は幾重にも響いた。
『我らの時間が来た、退け!』
『ワレラノ!』
「…還りなさい。冥府の淵へ。」
女は静かに言った。
静謐を閉じこめたように静かな声だった。
赤き月夜とは思えぬ程に。
『今は我らが闇の時間だ、僭越は許さぬ、光の者!』
『ユルサヌ!』
波は更に勢いを増し、まるで嵐の海の様相である。
あるいはもうそれは海と化したのか。
立ち上がる蓮華は、荒波に嬲られ頼りなげに波に翻弄されている。
それを痛ましげに見つめ、女は眉を顰めた。
『お前の闇を暴いてやろう。』
『オチロ!』
声はせせら笑うように、畳みかけて言う。
そして、嗚呼――荒波に千切れた赤き月の写し身が、池に立ち上がる――もう、池は闇に喰われたのか、二度と影を映さず、ただ昏い水面を晒すのみ。
「僭越、とは。そなたらのことを言うのです。今は夜。月が、世界を支配する時刻に御座いまする。」
沈着さを聊かも揺るがさず、すいと人差し指を空に向ける。
赤き月がその天上で動揺して揺らいだように見えた。
『赤き月は狂気の月。我ら闇の守り手。』
『血色ノ月』
『ワレラノ!』
捻れたような、不愉快な笑い声は尚も続く。
闇の一部が千切れて、女の体を襲う。
女は抵抗も見せず、恐怖も見せず、ただ静かに立っていた。
女の額に、真珠のような汗が浮かんだ。
剣が有らずとも矛が有らずとも、これは死闘と呼べたろう。
夜の覇権を巡る。
突き抜けた闇は、やがて夜に霧散する。
池に立つ闇の者は動揺を見せた。
「還りなさい。冥府の淵へ。」
もう一度、女は言った。
一体何が起こったのか、その声はやはり静謐を閉じ込めたような声ながら、掠れている。
少し息が、上がっていた。
『オオオオオ。』
闇は咆哮を上げる。まさに獣の叫びを。

今宵月を眺めていた者はその奇跡を目の当たりにする。
赤き月が、徐々に徐々に色を失い、白堊を取り戻していく――その様を。

闇が、膝を屈した。
一体どのような遣り取りがあったものか。
女の額の汗は、一筋流れ、顎へ伝う。
『見事…清らかなり。清らなる心、神聖なる月の守人。我らが、主。』
既に嵐の夜は静まり、夜はただ揺蕩っている。
女は腰を屈め、ぷつり、と蓮華を手折り闇に差し出した。
「黄泉比良坂の道が閉じる…休みなさい。」
初めて、女は笑んだ。
慈しみ深い笑みに、闇が薄らいでいく。
頭を垂れたような姿のまま。

闇が去り、白き月が完全に夜を覇する頃、女はゆるゆると息を吐き出した。
柔らかな風が駆け抜けて、辺りは初夏の静けさを取り戻していた。



蓮「休養」「沈着」「神聖」「清らかな心」