「何をしているの?」
不機嫌な声が雨音に響いた。
男は濡れた前髪を掻き上げて、女を見た。
女はこの魔界に在りながら抜けるような白の上着を羽織っている。
「…何だ。」
応えた声は思いの外掠れていて、男は一度咳払いをした。
「こちらが聞いているのよ?」
女は少し口を尖らせた。
その表情は蠱惑的に見えたが男の心は僅かほども揺れなかった。
「ほっとけ。後一時間で戻る。」
その声に女はつい、と背を向けた。
「そうね、いつもの貴方になってから戻ってらっしゃいな。」
その声は微かに痛みを伴っていた。
この女なりに心配してくれたのかもしれない。
「ああ。雨やまねぇかな。」
「止まないわ。」
歩き出しながら女は答えた。
そうか、と言う呟きは女まで届かず闇に溶けた。
あの女が一時間早く戦場に立てば、奴らは死ななかっただろう。
けれど女は予定調和のために現れたに過ぎず、そのためには奴らが死ぬ必要があった。
もしもたらればもこの世界には存在しない。
決められた数、或いは決められた対比で天使も悪魔も死んでいく。
それが誰かが定められていないだけで、必ずそれだけの命が削られる。
だから、どうしようもないのだ。
守ることは出来なかった。
男はぼんやりと思う。
それが例えば恋人だったとしても、戦場に立つなら、守るなんてことは出来ないのだ。
それは戦士の誇りを傷付ける行為だから。
殺し合いを終わらせないのは愚かだからではない、それでしか生きられない者がいるからだ。
彼らは笑って逝ったのだろう。
だから、涙は出なかった。
ただただ、終わったら飲み明かそうと言う約束が木霊して、ぽっかりとした喪失感を作っていた。
男は暫く雨に打たれていた。
そして、肩に付けた黒き大地の名を持つ宝石を一つ、砕いて地に還すと踵を返した。
雨は弔いのように一晩中降り続いていた。
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