汽笛。
蒸気音。
ガタゴトと車輪が動く音。
地上を走るそれと同じように熱源は熱く、私は汗を流す。
客席は通夜か葬式のように静かだ。
でも実際似たようなものだ。
この列車に乗るのは大抵、失われた心なのだから。

列車は昼と夜の二便。
私は夜の担当だ。
昼の担当がどんな人か、私は知らない。興味も、あまりない。
知ったところで会うこともない相手だし、羨むのはごめんだ。
昼の乗客は祈りや感謝、希望みたいな明るい光を帯びていると聞く。
きっとこの、耐えがたく、泣くも笑うも許されない空気など微塵もないのだろう。

唯一の楽しみは、就業の前後に会う人くらいのものだ。
私の上司で、私が言葉を交わす唯一の人でもある。
彼女は、切れ長の目元が涼やかで凛として、微笑む時に扇子で口元を隠す仕草が上品で憧れる。
毎日同じ時刻に同じ時間だけ会話する。
その中で彼女は私なんかにも労いの言葉を忘れずにかけてくれる。
一度、私の列車には心以外は乗らないのか聞いたことがある。
心を乗せるだけにしてはゆったりと豪華な客席に、単純に疑問が沸いたからだった。
彼女はいつものように扇子で口元を隠して微笑んだようだった。
そして、漆の紅入れを出して、そこに描かれた文様と同じ模様の書かれた物を持つ者が乗車を求めたら乗せるようにと言った。
それから、少し声を潜めて、もしこの印を持つ者がいれば、それは彼女の近しい友人達なのだと教えてくれた。

その日が来る事を私は想像しなかった。
その客席に人が座ることを想像も出来なかったし、いつかも知れない日を待ちわびるなんて馬鹿馬鹿しいと思ったからだ。

しかし、唐突に、その日は来た。
決められた通り、熱い熱い熱源を足し、車両を見回る。
すると、何か大きな爪のような物が扉を掴んだ。
扉の向こう側には、龍のような影が見える。
私は即座に腰に下げた警棒に手をやる。
ほんの稀に現れる心を糧とする魔物かも知れない。
けれど、警棒を抜くより早く、爪は人の手になり、よっ、と言う軽いかけ声と共に赤毛の男の人が乗車してきた。
「…乗車証をお見せ、ください。」
初めての事に戸惑いながら、大好きな上司に言われた言葉を緊張で痛むのどから絞り出した。
男の人は軽い調子で頷いて、ズボンに繋いだチェーンを引っ張り、私の前に骨のような物をぶら下げた。
「ひっ」
思わず声を上げると、男の人は首を傾げて、上司の示した印が見えるように骨を指で固定した。
「これ見せやなあかんやろ?」
男の人は困ったように言った。
よく見れば、血のように紅いそれは神に捧げる海の骨と言われる物だ。
けしておぞましいものではないと知り、私はほっと肩の力を抜いた。
そして、今まで一度もしたことがない乗客への一礼を実践した。
「…失礼しました。ご乗車ありがとうございます。御降車までごゆっくりお過ごしください。」
初めて口にした言葉は金平糖のように舌を転がった。
男の人は「おおきに」と告げて適当な場所に座った。
私はすぐに業務を再開する。
そうしなければ列車は止まってしまい、この男の人も心達も目的地に辿り着けない。
私はまた熱源を炉に運びながら、小窓から見えるたった一人の生きた乗客を眺める。
血のように紅い海の骨を持つ人。
あの海の骨と、恐らくあの男の人の化身である龍の角は形が似ていた気がする。
それに、その紅はあの燃えるような赤のイメージかも知れないと考えたところで答えはない。
何にしても正体が分かってしまえば、それは正しくあの男の人のために上司が用意した物なのだろうと納得した。
列車は止まることなく夜空を走る。
いつもの陰鬱な空気も変わらないけれど、たった一人生きた乗客のおかげで、今日は少し、仕事が楽しかった。
終着駅に着く。
集まった心達は一斉に外に流れていく。
私は急いで炉の火を落とし、客席に行った。
「終点です。御乗車有り難うございました。」
そう、降りようとした男の人の背に声をかけると、一度振り返り、また「おおきに」と笑って去っていった。

その後も何度か、上司の友人を乗せた。
でも一番はじめに乗せたあの男の人を一番印象深く覚えている。
彼は元気にしているだろうか。
上司に尋ねたことはない。
彼がどうしていようと、私には関わり合いがない事だし、他の乗客の事さえ訊いたことがないのだから。
ただ時折、思い出す。
血のように紅い海の骨と赤い髪を。
炉の中で燃える火に誘われるように。
いつか彼を乗せる日がまた来るかも知れない。
しかしその日を待ちはしないし、想像もしない。
この列車の客席は相変わらず暗くて、そんな幻のような日を思い出せないし想像も出来ないからだ。
またいつか唐突にその日は来るだろう。
その日まで、私は忘れも思い出しもせずにいるつもりだ。
汽笛。
蒸気音。
ガタゴトと車輪が動く音。
変わりなく列車は走る。私は列車を走らせる。
今日も明日も明後日もずっとずっと。