第一話




街からは少し離れた場所に家があった。

「ただいま帰りました。」
「おかえり。」

もうすでに幾度繰り返したか分からないやり取りを今日もその二人は繰り返した。
帰ってきたのは20代も後半に差し掛かったかに見える青年で、家の中から答えたのは青年より年上にも年下にも見える女性だった。

「先生、依頼の分、出来ましたか?」

青年は居間にあがると聞いた。
先生と呼ばれた女性は、僅かにその表情を歪める。

「今日は、あまり具合が良くなかったんですよ。」

台所にいたらしい少女‐少なくとも二人よりは若く見える‐は二人に持ってきたお茶とお菓子を配りながら言った。
青年は眉を顰め先生の様子を伺う。
先生の方はと言えば視線をあわせようとはせず、「明日はする。」とぽつりとつぶやいた。

「こちらは終わった。」

先生は傍らに置いていた茶封筒を机の上に滑らせた。
青年は留め具を解いて中身―原稿用紙の束―を確認する。
軽く目を通してからにっこり笑って頷いた。

「では、これは社に届けておきますね。」

再び茶封筒に原稿用紙を仕舞い、留め具を結びなおした。
先生はそれを横目で見ながら注がれたお茶を啜った。

「最近、依頼が増えてないか…?」

ほっと息を吐いて先生は言った。
青年は首を傾げてから、神妙な顔になり頷く。

「世界の敵でも動き出したかね?」

くすりと笑んで先生はこともなげに言った。

「先生、滅多な事は…」

少女が窘めるように言うが、先生はふん、と鼻を鳴らしただけだった。

この世界が旧世界と違うのは、ノルンという古い神話の神を擬えた名を持つ人物と、それを守る12人の使者によって管理されている事だ。
人々がその人物を直接知る事はないが、ノルンとそれを守る使者は世界の中心にあって、それぞれの国の要人を支配している。

「…私はノルンのモノにも、世界の敵のモノにもならんよ。」

唐突に発された声は此処にいる者に対して発された言葉ではなかった。
その声は静かだが透徹した意思を思わせる。
しかし、招かざる客にはそんなことは関係ないようだった。

パリン、

ご丁寧に障子窓を割ったその客に先生は溜息をついた。
そして少女に振り返る。

「今日の夕食は何かね?」

凡そこの場所に似つかわしくない言葉に、普通の人間なら逆上しただろう。
否、実際そこに来た来客も例外ではなかった。
口元を何かマスクのようなもので覆っているせいか、はっきりとした言葉は聞き取れなかったが、彼は攻撃というもっとも分かりやすい方法でその意思を示した。
もっとも、その攻撃は当たる前に青年の手によって止められてしまったが。

「今日は中華にしようかと思っています。」

そう少女が答えると、先生は鷹揚と頷き、用意をしてくれと言った。
少女は頷いて破られた障子とは反対側の襖から出て行った。

「さて。ご用件をどうぞ?」

既に青年の手から逃れ、一定の距離で隙を狙う刺客を振り返って先生は言った。
相手は当然何かを言うという事はなく、隙を狙うことも諦めたようだった。
俊足、と呼べるスピードで先生に寄ろうとし、そしてやはり青年に止められる。

「私を連れ帰るように言われているようだね。君のお上がどちらでも、私を殺せとは言わない。」

確信に満ちた声で先生は言った。
刺客の方はといえば、悠長な家主達とは逆に焦りを覚え始めていた。
刺客は組織の中ではかなり「速い」部類に入ると自負している。
組織とは勿論、暗殺その他の技術を積んだ人間の集団である。
それが何故、こんな戦闘のイロハも知らぬような優男に一度ならず二度までも止められるのか。
刺客は優男の腕から逃れ、また一定の距離を取る。
出来るだけ無傷で、しかし抵抗した場合は口さえ利ける状態ならば良い。
刺客は指令の内容をもう一度頭の中で反芻した。
どうやってこの女を攫うべきか、刺客は数瞬考え、それから青年の方を向いた。
女を攫うには兎にも角にも青年を排除することから始めるのが効率がいいと経験が教えたからかもしれない。

「ミカゲ、殺すなよ。」

先生は柱にもたれかかり、退屈そうに言った。
時折廊下のほうを伺っているのは夕食が気にかかるのか。

「はい。」

青年―ミカゲはその容姿そのままに爽やかに返事をした。
身に纏う雰囲気はけしてその爽やかさに相応しいとは言い難いものではあったが。
そしてその雰囲気―殺気と呼ばれるそれを感じた時、刺客はこの作戦に絶望した。
顔こそ優男だが、ミカゲのそれは人を殺した事のある者特有の闇を負っている。
ミカゲは武器を所持しているようには見えない。
しかし、それでも人を殺しうるだけの力量があるのだろう。
刺客は諦めてこの場を離脱する事に決めた。
恐らくこの敷地を越えれば、ミカゲと呼ばれた男は追ってこまい、と判断したからだ。
そして形勢を建て直し、再度今度は複数で来ればいいのだ。
そう決めた瞬間、刺客は踵を返し、割った障子からさっさと離脱した。
拍子抜けしたミカゲと、くつくつと笑う先生と、そして散乱したガラスの破片だけが部屋に残った。