月蝕




天使の存在は、この天界にあって特異なものだ。
或いは何故、その特質を持ってその地位を持てるのか疑問に思う者もいるかもしれない。
『はぐれ天使』と呼ばれる気質を持つ天使は皆、堕ちる事はないものの天使としての定義―つまり、神の正義を守る為だけの存在―から逸脱している。
例えばそう呼ばれる彼らは、自由に恋をするし、天界から人界へ降りる者も少なくない。
けれど彼らは天使で在り続ける。
何故そのような存在が生まれるのか、という答えを持つのはそれらを創る神のみが知るのか。
それとも、神すらも分からない特殊変異なのか。
『はぐれ天使』としての特質を生まれもって発揮する者もいれば、何かを境に見出す者もいる。
天使は、後者だった。
しかしそれは誰も気付いていないことだった。
本人すらも。
けれど、暁に重ねる逢瀬を、神が知らない筈はないのに、天使は天使であった。

朝と夜の曖昧な時間を誰そ彼と呼ぶ人間の気持ちを理解したのは、二度目の逢瀬だった。
闇が堕天使を掻き抱いて、光が天使を掻き抱く。
それだけで、二人はもう眩しくてお互いの顔を確認できない。
その切なさを幾度重ねても、二人はその切なさの名前を知らない。
そこにあるのは奇妙な程の純粋さだけだった。

言葉を交わす事も少なかった。
ただ、掌を重ねて、指を絡めて。
時折唇を重ねる。
それだけで満たされてしまう、ただ夜明けに別れが来ることだけが満たされない。

堕天使は、葛藤していた。
満たされれば次の欲望が生まれる。
天使とは違い、そんな当たり前の欲求を、堕天使は持っている。
破壊衝動にも似たその感情を抱き締める腕に力を込めることにすり替えて遣り過ごせど、その衝動は加速していく。
しかし、天使を奪うことは、出来なかった。
天界にあって、天使は、神に近しい場所に座する。
その天使を奪うことは、天界の崩壊を招くようなものだ。
壊してしまいたいという思いは、ある。
しかし、それを出来ないのは、天使が哀しむだろうと、思うからだ。
天使という種族の脆さを、堕天使は知っている。
彼らは秩序を失えばたちどころに消えてしまう。
そんな儚さが美しく、そして苛立たしい。
堕天使は、天使が『はぐれ天使』である事に気付いていなかった。
だから葛藤は、続く。

世界の転換期、というものがある。
善悪が混沌とし、そして新しい秩序が生まれる。
その期間を指してそう呼ぶ。
世界はその転換期に差し掛かっていた。
少しずつ倒壊する天界で天使達の数は着々と減っていた。
しかし天使は変わらぬまま。
堕天使は、このまま天界が崩壊してしまえば、と願った。
願わずにはいられなかった。
新しい世界で、どんな道を歩く事になるとしても、誰そ彼にしか会えない今よりは良いと。
天使もそれを望んでくれたら、と。
世界が崩れていく様を、見つめながら、堕天使はそう願ったのだ。

天使は、沈黙を守ったまま、世界を見つめていた。
特に悲しみはなかった。
神の守るべき世界はもう終わっていくのだろうと思った。
神を愛することは変わらない。
神の傍にあることも、恐らく変わりはしないのだ。
ただ、少しだけ。
ほんの少し、堕天使との世界の隔たりが哀しい気がした。
誰そ彼というほんの少しの時しか、共に在れぬ事が。

さて、世界の転換期にはもう一つ大きな行事がある。
天界と魔界の、戦争。
永遠に決着のつかないそれを、この転換期にだけ繰り返す事の意味を、天使も、堕天使も知らない。
けれど、二人は、その戦争に従事しなければならない。
それだけは分かっていた。



いつもと同じ場所で、天使は待っていた。
堕天使は来ない。
いつもと同じ夜明けを、天使は一人で過ごす。
その暁を見ても、何も感じなかった。
堕天使がいないことの空虚に、天使は耐えられない。
何故、来ないのか。
まさか死んだのか。
考えが幾重も過ぎる。
もう夜が明けきってしまう。
諦めかけたその時、銃で撃たれた鳥の如く、堕天使が落ちてきた。
空から。
血塗れの堕天使のその血は、本人のものなのか、天使の同胞のものであるのか。
天使には分からない。
ただその身を案じる。

「…案ずるな。」

堕天使は、低い、掠れた声で言った。
やや青く色を失った唇は、天使の知る唇ではない。

「来るとは、思わなかった。我らは今、戦わねばならぬ身なれば。」

堕天使は続けた。
天使は、自分の中に渦巻く感情をうまく制御出来ずに涙を零す。
ただ必死に首を横に振りながら。
堕天使はそれをいつもより穏やかな眸で見つめる。

「世界が終わっても、我らはこのままか。」

堕天使は憂うように、何かを願うように天使に囁く。
天使は意図が分からずに、堕天使を見つめる。

「我らは住む場所を違えたまま、こうしてこの時だけを過ごすのか。」

もう疾うに陽は昇っている。
木陰に寄りかかりながら、堕天使は目を細めて言う。
堕天使には、眩しすぎる。

「…俺は、貴君を連れ去りたい。」

乾いた血がこびり付いた手で、白い、天使の手を握る。
天使は堕天使を拒まなかった。

「何処か、そう、人間になるのもいい。二人で過ごせる世界で、共に、在りたい。」

堕天使の真摯な声に、天使は震える。
どうしていいか分からないのだ、それを願うという事を天使は知らない。

「そう願ったから、天を降らざるを得なかったのかもしれないが。」

自嘲気味に、まるで終わりの刻のように言う堕天使に、天使は怯える。
この切ない時間を失おうとしていると、無意識が天使に警告する。
訳が分からなくなって、天使は思わず堕天使に抱きつく。
堕天使は僅かに目を見開き、そして抱きしめ返した。

「どうしていいか、分からないのです、私には。」

細く喘ぐように天使は言った。
切なく消えそうなほど儚い声を堕天使は愛しく思う。

「では、奪われてくれ。俺に。」

甘く、堕天使は誘う。
天使は一瞬迷った。
しかしすぐに目を閉じ、頷く。
堕天使はほんの僅かに笑んだ。

手と手を繋ぎあって。
指と指を絡めて。
見詰め合って。
そして羽ばたく。

結局は、葛藤や逡巡等より二人で手を取り合う事の方が自然なのだ。
例えば、二枚貝のように。
共に在る事が、自然なのだ。

その後の彼らを知る者は、いない。
きっと何処かで共に在るのだろう。
幸せに。



「良かったのですか?」
黒い影が聞いた。闇より深い闇の色の影。
白い影は僅かに身じろぎ、笑ったようだった。目映いほどに白色の影。
「世界の何処でどのようにしていようが、あれはあれ。幸せに在ればいい。」
その言葉に黒い影も笑った。
「我らが創る存在は全て愛されてると彼らが知るのは何時でしょうか。」
黒い影は問うた。
「さて、生まれ変わりその地に足を着けた時だろうか。」
愉快気に白い影は言った。
「新しい世界が始まる。優しい我が子らに幸い在らん事を。」
白い影と黒い影は動き、杯を合わせた。
澄んだその音から、新しい世界は始まろうとしていた。