秘め事




月が南中を過ぎた頃、少女は今宵も男の元へ訪れた。
少女が立つ窓辺の足下で、植えられた花が急速に瑞々しさを失い、仕舞には茶色くかさついて、指で触れれば簡単にくしゃりと潰れるほど風化してしまった。
少女の美しさに恐れをなしたのか、少女の美しさを際立たせるか、或いはその両方の為に。
少女はふわりと男の寝台に近付いた。
彼女の歩行は大凡物理法則とは無縁そうに見えた。
しかし、歩く度に長い髪はさらさらと揺れる。
或いはやはり物理法則とは無縁の風が吹いていたのかもしれない。彼女の為だけに。
少女は男が横たわる寝台に身を寄せた。
そっと屈んで男の頬を愛しげに撫ぜる。
その下、頭部と体を繋ぐ部位を視界に認め、少女の眸は揺らいだ。
苦しげに形の良い眉が崩れ、少女は口元を殆ど無意識に男の喉元に寄せた。
そして、隠しきれない乱杭歯を男の健康そうな皮膚が僅かに押し返す弾力に怯んだように、少女は口を喉元から離して、その口元に手を当てた。
この種族の抗しがたい飢えは少女の意志とは関係なく、じわりじわりと少女を陰鬱で恍惚な時間へと誘おうとする。
声も上げず、少女はぐっと目を瞑り、飢えをやり過ごそうとした、その時。
「構わないと言った筈だが。」
横たわり何の抵抗も見せず眠っているようにさえ見えた男が初めて声をかけた。
目は閉じたまま。
少女はびくりと体を震わせ、飢えた眸を開いた。
「構わない。」
もう一度ゆっくり紡がれた言葉に、少女は首を横に振った。
男は目を閉じたままだったが、雰囲気で察したのか微苦笑を漏らす。
「強情だな。」
ゆっくり目を開きながら男は起き上がった。
開かれた深い闇色の眸が少女を映す。
漸く飢えの衝動を押さえ込んだ少女は、もう一度念を押すように首を横に振った。
「   」
男が少女を呼んだ。
ふるりと少女は震え、その唇は男の名を象った。
音が伴わぬそれは、男を満足させたようだった。
愛しげに目を細めて、おいでと言う風に腕が開かれる。
少女は誘われるままにおずおずとその腕に体を寄せた。
愛しい者に求められる喜びに種族など関係はないのかもしれない。
すぐに力強く抱きしめられ、少女は幸せな吐息をこぼす。
少女にはこの瞬間が永遠であれば良いのにと思った。
この何よりも甘美で幸せな時間のまま時が止まれば、と。
しかし、少女の身は永遠の渇きを満たす暗い恍惚の時間を望む。
少女は本能に抗う。
――この男を同朋にはしたくない。
――この男を下僕になどしたくない。
――だから、この男の血だけは吸いたくない。
――嗚呼、いっそこの腕の中で心臓に杭を打ち込んでくれたら良いのに!
何処か歪んだ思考が飢えと幸せの間で揺れる。
愛しているからこそ越えてはならない一線が確かに存在していた。

やがてどこかで一番鶏の声がする。
また、夜と朝が二人を分かつのだ。
するりと、少女は男の腕から抜け出し、窓辺に立つと一度だけ振り返った。
儚い微笑みを残し、少女は窓から去っていった。
残された男は嘆息し、己が腕を見つめる。
確かにあった、ひやりとした人ではない温度のそれを思い出すように数度、手を閉じて開く事を繰り返した。
そして、辺りが白んできた頃、漸く窓を閉める。
真夜中には掛けていなかった鍵まできっかり閉めて、男はベッドに潜り込んだ。
少女の冷たい感触を想いながら、暫くの微睡みの世界へ旅立つ。
秘められた夜半の逢瀬。
けして結ばれない二人の、しかし悲しみはない恋物語の一遍、これにて終幕。