それはあの時も今も空で




日本に帰ってきてまだ一夜明けたばかり。
時差惚けの体をどうにか動かして、俺はカメラの手入れを始めた。
ボディーから始めてファインダー、レンズ、マウント、ミラーといつもの手順で汚れを落としていく。
それから現像をスタジオに依頼する。
拘って自分で現像するカメラマンも多いが、自分でやるより現像技師を使った方がずっと綺麗に仕上がると思う。
バイク便も手配して、フィルムをまとめて預ける。
一仕事終えて、冷蔵庫からミネラルウォーターのペットボトルを取り出す。
冷蔵庫には他には何も入っていない。
買い物に行かなくてはいけないと思いながら、ソファにだらしなく座った。
平日の住宅街は静かで、眠気を誘う。
春の陽気に誘われてうつらうつらと舟を漕いでいると、携帯が鳴った。
思わずびくっとして携帯を見ると、画面には馴染みの詩人の名が表示されていた。
「もしもし。」
「あ、秋月です。」
お決まりの科白から会話は始まる。
「お仕事をお願いしたくて。」
挨拶の後、詩人は言った。
詩人というのは不思議な人種だ。
たった一行でも、それを彼らが紡いだならばそれは詩であり、その言葉の響きの中にあらゆる意味を感じさせる。
彼女は写真に詩を付けるという作風の詩人で、縁あって今までにも何度か一緒に仕事をしている。
「夜の写真をお願いしたいの。出来ればいろんな場所の、空や町並みやとにかくいろんな写真。…いつも通り、全てを使えるかは分からないんですけど。」
人より少し小さな声がそう切り出した。
彼女が扱うものは殆ど風景写真だが、夜を扱ったものは初めてではないだろうか。
俺が知る限りで、だが。
そう思いながら俺は承諾した。そして国内か国外か、等を少し詳細に取り決める。
「ありがとう、また旅先のお話も聞かせて欲しいから、良ければまたいらしてくださいね。お願いします。」
そう言って彼女は電話を切った。
俺は過去に撮った写真で仕事には使っていないものを取り出すべく棚を漁る。
カメラマンをやって20年にもなれば、使われていない写真の方が多い。勿論新しく撮り足す気ではいるが、その中にも良さそうなものがあれば持って行こう。
結局昼過ぎ、空腹を感じるまでその作業に没頭した。

翌日、まだ時差ボケが抜けない体でだらだらと午前中を過ごし、午後になってから仕事の準備を始める。
依頼は夜の写真だから、夕暮れ辺りから出かければいい。
すっかり春爛漫と言った風情の日本を映すならばやはり夜桜だろうか、と思い、夜桜のスポットをいくつかチェックする。ついでに一週間の天気も。
10年も前なら、こんなに簡単にチェックは出来なかった。インターネットは偉大だと思う。
今日行く場所を決めて、そこに至るまでの町並みを思い浮かべながらカメラを用意する。
最近はデジタルカメラが主流のようだが、俺は未だ昔からのカメラを使っている。デジタルカメラも使ってはみたが、やはり手に馴染んだものの方が使い良い。
フィルムの在庫を確認してから、フィルムの注文もする。デジタルカメラは使わないがインターネットはフル活用している。
そろそろ出かけようかという頃にバイク便が昨日の写真を届けてくれた。そのまま折り返し依頼元に送る手配を整えバイク便を送り出す。いつも頼んでいるところだから融通が利いていい。
抜いたフィルムを棚に入れ、それから家を出た。夕暮れに近い空は優しい色をしている。
電車で二駅程移動し、ゆっくりと川沿いを歩き、比較的真新しいビルの隙間を空を入れて撮ったりしている内に徐々に空は藍色を増す。
すっかり日が落ちきった頃、漸く夜桜のある場所に辿り着いた。
そこは宴会などをするような雰囲気の場所ではない。というか桜は一本しか立っていない。敢えて言うなら、その木の下で野点でもする方が雰囲気には合ってる。
プロ・アマ問わず、同じようにカメラマン達がシャッターを下ろしていた。そこに混じってたっぷりフィルム一本分を撮った。
そんなことを数日続けて、依頼の電話から一週間経った頃、俺は彼女に電話を入れた。
「写真がだいぶ撮り溜まったから、暇な時に顔を出すよ。」
通例通りの挨拶の後そう切り出すと、彼女は嬉しそうにありがとうございます、と言った。
「私はいつも通り仕事部屋にいますから、いつでもどうぞ。」
「じゃあ明日の昼過ぎにでも。」
そう言って時間を取り決め、電話は終わった。

翌日、手ぶらも何だと駅で適当に買った菓子を片手に彼女の仕事場を訪ねた。
彼女の雰囲気はとても女性らしいのだけれど、彼女の部屋は少し殺風景だ。物自体は多いのだが。
「これは土産。こっちが写真。」
菓子と写真をまとめたアルバムを順番に渡すと、彼女はお礼を言って菓子を持って一旦席を外した。
すぐにコーヒーの香りと共に戻ってくる。勿論、手土産の菓子も忘れない。
どうぞ、どうも、と決まりきったやりとりをして、彼女はアルバムを手に取った。
一応国内と国外、地域別にまとめた写真を、彼女は早くも遅くもないスピードでめくっていく。
「あ、これ好きです。」
彼女は一枚の写真を指差して言った。写真を持っていくといつも、仕事とは関係なく彼女は写真の感想をくれる。
釣られて覗いた先の一枚は、自分にとっても印象深い一枚。
「それは俺も気に入ってる写真だ。まだ駆け出しの頃だから…あーもうそれから20年も経ってるんだな。」
思わず苦笑すると、彼女はきょとりと瞬いた。そりゃそうだ、20年前だと彼女はまだ小学生かそこらだ。
「初めて自分のカメラを買った時の写真だよ。嬉しかったなぁ…今使ってるのよりずっと安くてちゃちい物だったけど、自分で稼いだ金で買ったっていうのが、嬉しかった。それで、一番最初に撮ったのがこの写真。」
青臭くて照れくさい過去を、彼女は笑いもせずに聞いた。
「じゃあ、1ページ目はこの写真にしたい、です。」
仕事の話は滅多にしない彼女が、珍しく真剣な表情で言った。何かインスピレーションが沸いたのかもしれない。
「その中の写真はどれを使って貰っても構わない。気に入ったものを使ってくれ。」
いつものようにそう返事すると、彼女は嬉しそうに笑った。

かくして、仕上がった詩集は素晴らしい出来栄えだった。
宣言通りあの写真は1ページ目に使われた。
20年前、カメラを買ったその日、店を出てすぐのビルの間から見上げた空。
幾重にも青を重ねた、まだ宵の口の明るい空に淡くも輝く星を撮った、俺の写真家人生第一枚目の記念すべき写真には、詩人の柔らかな言葉が祝福のように添えられていた。