契約




『無を根源とする者よ、無の支配者、汝に願うことありて我は彼方より参ぜり。真に無を知る者よ、この声を聞き届けよ、我は真実を根元とする者なり。』

「…それは、私に向けられた言葉かね?」
旧い神々の文字で記された本を閉じて、城の主は虚空に突如現れた蝶の様なそれに訊いた。

『然り。我が声は真にそれを知る者にしか聞こえず。有の者には聞こえず。世界の調律を司る城、その主に願いありて、我は参った。我が願いの対価は真実、我が根元なり。』

音もなく、鼓膜を振るわせる波もなく聴覚に届く声に、城の主は薄く笑んだ。
「良かろう。彼方より遥々、ようこそ、刻の城へ。暫し踊り場の刻に遊ぶが良い。根元を対価とするその願いを聴こうか。それが真にその対価と等しいならば、私は願いを叶えよう。」
城の主はふわふわと所在無く宙を彷徨う”蝶”にそう告げた。”蝶”は暫く宙を彷徨い、それから、机に置かれたインク壷に止まった。
その仕種は、真実と告げた蝶を訝しむでもなく、そこに止まる事を咎める事もしない城の主に、安堵したようにも見えた。
この”蝶”が真実だというなら、それは何に対しての真実なのか。この主が無を支配するというのはどういう意味なのか。
それは互いには理解され、そしてもしも此処に他の者がいたとしたら、間違いなく理解されない言葉だったろう。
同席したのが、この二つを知らない者であったならば、そもそもこの蝶の様な生き物を見ることすら出来ない。

真実は全てにおいて存在し、それを根元とする者はその全てを掌握し、されどそれに干渉はしない。
無は有と常に背中合わせに存在し、無を支配するのははじまりとおわりを掌握している事に等しい。それは、無から有が生まれ、有は無に還るからである。
神を有とするならばこれは神と等価の存在である。無は有自身である神よりも強く全てを覇することの出来る唯一の存在である筈であるが、その存在自体を知るのは、無自身と有自身、そして真実のみであり、それは無が有に対して干渉しないからである。
「願いは、何かね?」
城の主は暫く”蝶”がそこに佇んでいるのを観察した後にそう言った。”蝶”は僅かに羽を震わし、それから主が読んでいた本の隅に飛び移った。

『我が願いは、その眸。この世の者に在らざる眸。全てを傍観する眸。その眸こそ我が願い。全てを賭しても知りえぬ唯一の真実。』

世界を傍観し、調律する、その城の主の真実を真実は見えないゆえに、その眸を欲すると真実は告げた。何という貪欲さか。

「良かろう。我が眸、真実を対価として与えよう。」
あっさりと城の主は頷いた。己の肉体に、愛着というものがないのか、それとも。

『おぉ、無を根源とする唯一の者よ、汝は我が願いを叶えてくれるというか。我は真実であり、真実を知る者。汝、その全てを受け取るが良い。刻は事実と真実を知るに相応しい。』

”蝶”は城の主の言葉に歓喜した。その羽を忙しなく羽ばたかせる。
「契約は、対価以上を以って破棄され、それ以外に破棄の手段はない。契約の履行期限は…無期限。」
城の主は、事務的にそう告げた。いつもと全く同じ調子で。

 ***

僅かな熱を感じるだけで、それは為された。
”蝶”は人の形を取り、片方にその銀色の眸を受け取り、去っていった。
城の主は、相変わらず茫洋としながら、それを見送り、何事もなかったように手元の本に目を落とした。

それ以降、真実の便りはない。
それはもう真実ではないからなのか、それともやはりそれが真実だからなのか、誰も知らない。