神話のはじまり




死者の王の名を預かっていた頃、その人物は訪ねてきた。
人間が使う車椅子に模した椅子に座った女は形のいい赤い唇を開いた。
「王を冠する者よ、我が願いを聞いてはくれぬか。」
「対価さえ払うなら、叶えよう。」
私は答えた。
美しくも哀れな、死の国の女王の問いに。

願いは、次代の女王を見届けること。
筋道を読めば見える影は、我が半身。
私は、図らずも笑った。

「前言撤回だ、女王よ。その願い、心に留めるに置いておこう。対価は必要ない。」

女王は首を傾げ、しかし頷く。

「貴方がそういうならば、任せよう。我が願い、どうか、覚えておいてほしい。」

そう言って去ったあの女王は、次代の女王の不幸を知っていたのだろうか。
血の繋がりはなくも、我が子のように思う心があったのだろうか。
彼女の真意は分からない。

今、ここにいたら、彼女は怒るだろうか、哀しむだろうか。
歌う天使はその身を封印の鍵とする為だけに存在して、あの女王の後継者は眠る。
憎しみに溺れながら。

天から隠すために、その強すぎる力を封じる為に創られた天使は、内に眠る力に怯える。
救いなど、この手にはありはしないのだ。

ゆらゆらと揺れる水面を歩む天使の後ろ姿に、凍る世界の女王を思う。

「例え貴君でも、あれを渡す気はないよ。」

白い影には振り返らず言った。
北欧の主神の冠を持つ男に。
白い影は苦笑した。

「僕は『彼』で在ることより僕でいたいですから。それに、紅の君が兼任してくれてますからね。」

生と死を分かつ門を守る一族の娘を指して、白い影は言った。
凛とした娘の姿を思い出して、私は頷いた。
あの娘はどれだけ苦しもうと、一族を誇りとして死者を守る。
何ひとつ自分のものにはならずとも、ただその命が終わるまで、果たすべき役割を全うするのだ。

「憎しみが、神々の座する場所へ向かうなら、僕は黙っているわけにはいきませんけど。」

患者の病状が悪化した時の表情で白い白い医師は言う。
私は応えず、天使の歌う姿を見つめる。
北欧の地の古い言葉で紡がれる歌は月に昇る。

「憎しみは私に向かおう。そしてあの天使に。私はその罪を食らおう。今は眠る半身の望むように。」

零した声は思ったより小さかったが、医師には届いたようだった。
響く旋律は子守歌。
けして天使を許すことはない幼い女王のために、天使は唄う。
その痛みを抱き続けられるから、彼は天使でいられる。
例え何人が彼を穢そうとも、内包する女王を怯えながらも愛している限り、永遠に神聖で在り続けるだろう。
それはけして幸福では、ないのだろうけれども。
彼の帰依する神は、彼を愛し赦しながら、彼が迫害されることを止めることは出来ない。
平等とは、公正とは相容れないのかもしれない。

「では、僕はこの辺で。また次の検診で。」

歌が止むと。医師はそう言い残して去った。
天使は暫く、昇り始めた月の光を受けていたが、やがて歩み寄ってくる。

「そろそろ冷えてくるよ?」

小首を傾げて言う天使に、私は頷き、そして尋ねる。

「幸せかね?」

天使は驚き、じっと人の顔を凝視した。そして無言で、月も恥じらうような笑みを称えた。
私はその顔に複雑な想いを抱きながら、けれどやはり頷くしかない。
この天使が例え、幾度、死を望んでも、私はそれを与えないのだから。
たったひとつの願いさえ、きっと完全には叶えてやれない。
この天使は、それを知っているだろう。それでも、笑うのだろう。
かつての女王はもう今は、輪廻の先で新しい生を迎えているだろう。
この天使の中に眠る女王も、いつかその環へ還る。
そうして漸く、天使は眠ることを選べる。
それまでにはまだまだ、時間がある。
願わくば、それまでに、彼が帰る場所が出来ればいい。
永遠を約束される場所が。
永遠のその先にも寄り添う存在が。
彼が帰依する神でも、女王が憎む神々でもない一人の神なる者が、その永遠を築き上げられたら、それはおそらく新しい神話を生むだろう。
私はその物語が見たいのかもしれない。

数歩前をふわふわと歩く天使を見ながら、私は儚い物語に想いを馳せた。