時には秘められた恋物語を




「…何をしている。」

滅多な事では近寄らない部屋の扉を開き、私は言った。
その言葉は行為の確認をしたかったわけではない。
行為の確認は此処にこの天使がいる、それが全てを物語っているのだから、必要ない。

声に反応して僅かに肩を震わせ、気だるけに散らばった髪をかきあげて、首から上だけをこちらに向ける。
その仕草は普段の何処か幼げな天使とは似ても似つかない。
向けられた顔、唇は赤く熟したように潤み、長い睫毛もしっとりと瞳に影を落としている。
その美しい顔がうっそりと微笑めば隠された淫縻さが露になる。
男なら押し倒していたかもしれないし或いは女なら自ら足を開いたかも知れない。

「誰…?」

隣にいた女がまだ余韻を残した甘い声で問う。
私は溜め息をついただけでその言葉を無視した。
天使は思考が定まらないのか、それとも言い訳を考えているのか、何も言わない。
その華奢な腕に女は擦り寄ってまた二人の世界を作るべく天使を誘う。

「淋しさは紛れたか?」

女の存在は無視して私は問うた。
天使は首を傾げ、泣きそうな顔で微笑する。

「"食事"以上を期待するなと言ったろう。それで満たされるなら、探す必要などない。違うか?」

いくら愛し合う筈の行為を繰り返したところで、それが"腹を満たすため"の行為であれば、淋しさが紛れる筈もない。
それを"食事"としなければ生きていけないこともまた事実で、そんな天使にとってはもし恋人が出来たとしてもその行為に愛は絡め難いのかもしれない。
或いは、その行為を恋人と交わすことで、傷付くのかもしれない。

「今はまだ、その時期ではないだけだ、愛すべき人は必ず現れるだろう。これまでのように。されば今は、もう少し、耐えねばなるまい?」

問えば頷く。それだけで私の用は終わった。
女は自分を向かぬ天使に苛立ちを覚えたのか、起き上がって服を着けている。
甘ったるい香水に顔を顰めて、私は部屋を後にした。



恋多き天使の一番穏やかな恋は、いつかのイギリスの町の片隅だったと記憶している。
その相手は唯一彼が添い遂げた相手であり、唯一彼が彼である事を『悟って』いた人間だった。
その男は老いていた。
これからの時間よりもこれまでの時間の方が長いからこそ、彼を彼として認識できたのかもしれない。
或いは死が近いからこその悟りだったのかもしれない。

天使にとって"食事"とは肌を重ねる事で、彼の存在維持に必要なエネルギーをそれによって補っている。
彼が天使で在る為には、そもそも天使としての力が必要である。
それを自ら創る事は彼には出来ない。
だから彼は魔族にも似たその手段で力を得るしかない。
彼は神に創られた神の使徒ではなく、私が創った天使の模造品だ。
しかし彼は天使でなければならない。
その役目の為に。
だから彼はその行為を交わし続ける。人間に限らず。
それは背徳的で、天使は時折その事実に絶望していたけれども、抗うことはできなかった。
そんな彼の事情を知らぬにも関わらず、男は彼が時折夜に出かけることを赦した。

それでも、彼は人であり、天使はやはり天使だった。

「ユーリ!」

悲痛な叫びも虚しく、彼の傍らに横たわる老人は息を引き取った。
神はまた一人、彼から愛する人を永遠に奪いたもうたのだ。
その哀しみを理解できる人はどれだけいるだろう?

その二人の穏やかな物語を詳しく語る口を私は持ち合わせていない。
時間を共にしたのは5年。
男が65歳から70歳までの時間だった。
男は孤独だった。
年を取らない天使を彼は救いだと言った。
多くの人間が醜く年老いていくのを見られたくはないと彼を遠ざけた中、男は穏やかだった。
ただもう終わりに近付く自分の人生を看取ってくれる天使に感謝しながら、毎日を静かに過ごした。
ただ、それだけだ。
言葉にするにはそれ以上何も必要はないだろう。
その物語は、天使の胸の中でだけ息づいていればいいのだから。



恋多き天使の一番穏やかな恋は、いつかのイギリスの町の片隅だったと記憶している。
彼自身が地球上で一番好きな場所がそこだというのだから間違いないだろう。
いつか彼の口から、その物語を聞く日を、私は楽しみにしている。