手向けの涙




「貴方も死を選ぶか。」
「君か。私はもう、疲れたよ。」
紳士と呼ぶにふさわしい老年の男性は、訪ねてきた、出会った時から寸分変わらぬ姿の刻の城の城主に穏やかに笑んだ。
「君なら、私の記憶を消してくれるだろう?だから呼んだ。」
うつ向く城主の肩にそっと手を置いて、紳士は言った。
「我々は、不便な種族だな。様々な権限がある代償に、失わない記憶を持って、幾度も生を繰り返す。終わりなど永遠に来ない。私は、疲れたよ。」
冒頭の言葉をもう一度、紳士は繰り返した。
城主の表情は髪に隠れて見えない。
「対価は?」
静かに、城主は聞いた。
静か過ぎて、泣いているようにも聞こえた。
「この時計を。」
懐中時計を出して、紳士は城主に差し出す。
「貴方の願いを叶えよう。幸せな来世が訪れん事を。」
「君が覚えていてくれるから、私は決断出来たよ。有り難う。」
消え際に遺された言葉の響きに、城主は少しの間、そこに佇んでいた。

「確かに、貴方の魂の記憶を消そう。皆、私を忘れ、私を置いていくとしても恨みはすまい。私が私である以上、私は見守るしかないのだから。」
それでも淋しいと、逝く人に言わずに置いたのは、意地か諦観か。
城主本人さえ、分からなかった。
ただ、吹き抜ける風が、流れる時を告げ、城主は歩き出した。
思い出だけを抱いて。

数日後、城には一通の手紙が届いた。
あの紳士からの手紙だった。
遺していく事を詫びた手紙だった。
幸せを願う手紙だった。
あの紳士は、遺す痛みも遺される痛みもよく知っていたのだ。
だから手紙を遺して逝ったのだろう。
城主は読み終えた手紙をそっと文箱にしまいながら苦笑した。
その頬を泪が一筋だけ流れ落ちた。


それはまるで、餞のように。