月の恋




一日中、人の書斎に篭っていた天使は、日暮れ頃、うっとりとした様子で部屋から顔を出した。
「面白かったか?」
今朝早く、何か本を読みたいというこの天使に、私は一冊の本を探すなら読めと言ったのだ。

天使は、未だ小説の世界に陶酔している様だった。
暫くして、こっくり頷いて、微笑する。
「恋をしたいって、思った」
「彼奴は?」
「あの人と出来れば、そりゃ、素敵だけど。オレの躯は……」
天使は、悔しそうに、唇を噛む。
「…傷が…増えてないか?」

まだ肌寒い季節だというのに、短いズボンからすらりと長い足が見えている。
…傷だらけの。

何だ、素敵な恋をしているんじゃないか。
この、子供のような天使は、うっとりと、夢見るけれど。
逢えない辛さを紛らわす為に小説に読み耽ったり、その体の痛苦を、傷を創る事で耐える、その姿は、美しいと思う。

噛み締めた唇が紅い。
恋人の前では見せる事のないだろうその顔を、もしも恋人が見たなら。
きっと、何処かに閉じ込めて、出す事はないだろう。

ふと、そう思いついて、私は苦笑した。
天使が、首を傾げる。
「気に入ったのなら、持っていくといい」
私の言葉に、満面の笑みを残し、急いで書斎に戻る。
再び、姿を見せた天使に、私は部屋から持ってきた、小さな包みを天使に投げ渡した。
「それが気に入ったのなら、これもやる。“パパ”の代わりに、な」
小説の中の一話を思い出して用意したそれは、アヘンの意味を持つ香水。
もし、この天使の体から、仄かに馨る月花香に混ざれば、本物の麻薬のように、彼を酔わし、狂わす事だろう。

現実ほど、確かな夢はないと思う。
叶わぬ夢と諦めるなら、幻想を手にすれば良い。
叶えたい夢なら、もしかしたら、手に入るかもしれない。
だから。この、諦める事しか知らない天使に、気紛れの優しさを与えた。
これから、どう進んでいくか分からない。
只、今だけでも良いから幸せでいて欲しい。

忌まわしい過去に別離を告げ、哀しい過去を受け入れられたら。
幸せな未来を手にする事が出来るだろうか。
譬え、仮初の現実だとしても。
そんな、偽善的な想いを、月もない空に投げた。