桜の季節に




「今年も終わったな。」

城下の一部を華やかにしていた桜が瑞々しい葉をつける頃、いつもと同じように散歩から帰ってきたその人に私はそう言った。
穏やかに微笑して、頷くその様は、薄紅の記憶に囚われているというよりは牧師か神父がただ神を想う様に似ている。
「今年も美しかった。」
桜は冬の寒さが厳しいほど美しく咲くと何処かの本で見た事を思い出して頷く。
今年は暖冬だったが、それでも桜は健気に美しく花開いた。
この男はそれを愛するのだろう。
恋人のように。

窓辺に座った彼の髪をさらりと風が攫う。
穏やかに穏やかに時間を過ごす彼は、時間が流れている事を知っているのだろうか、とふと疑問が沸く。
しかしそれは愚問に過ぎないことを私は知っていた。
彼は過去にあって此処に過ごす。
それは決められたことのようにもうずっと続けられている。
「桜が、今年も眠りを深くしてくれるのだろう。」
墓標の下に棺はない。
ただ、そこに生きた証として墓標を立てたに過ぎない。
それは戒めのためであり、生きるためであり、忘れないためであり、彼女の願いのためでもあった。
慰めるでもなく私はそう言った。
「私は、こうしている事しか出来ない。」
ぽつり、と男は言った。
私はやはり慰める言葉は思い付かなかった。
そして、慰めるべきかどうかも分からなかった。
戒めは傷ではないと知っているから。


「クローバーを見つけたから、しおりにしようと思ったのだが、萎れ掛けてしまった。」 暫くの沈黙の後、男はその体温の低い手に軽く掴んだクローバーをテーブルの上に乗せ、それでも几帳面に和紙に包み、本に挟み込んだ。
「もう春も終わりか。」
低いその体温でも萎れ掛けてしまったクローバーは本ごとひっそりと本棚に戻された。
男は再び窓の外に目を移した。
薄紅色の花はもう今は少なく、鮮やかな緑だけ、切なかった。