静かすぎる月夜だった。
星の瞬きも淡く、月は清涼な光を放つ。
他愛なく思考を巡らしながら、通い慣れた道を歩く。
頭上の桜はまだ蕾だ。
やがて咲くだろうそれからこぼれる淡い馨を楽しむ。
その内に、さぁ、と雨が降り出した。いわゆる天気雨と呼ばれる俄か雨。
月は変わらず空に佇んでいる。
星は、水による屈折のせいか僅かににじんでいた。

「こんな日は、月から何か落ちてきそうだな。」
天を仰いで、その体に宿す別の意識に話しかける。
「そういえばもうすぐ最後の花が咲くって言ってたよ。これでもう、咲かないだろうって。」
意識を中に戻して天使を見れば、花を思ってか目を伏せる。
「花に意思があるなら、私のところへ来るだろう。」
「そだね。来るといいなぁ。オレ、あの花好きだから。」
祈るような表情で僅かに微笑む姿は美しい。
だからこそ、月に愛されるのだろう。
軽く頷いて、外に意識を戻す。

絹糸のような雨は、月灯りをたまに弾く。
音を失くしたような静寂は雨の音さえも消し去るような、そんな錯覚を生み、幻想的な光景だった。
軈て音もなく雨は止み、月の光が雨に遮られる事もなく注がれる。
それは、その光の筋を辿るように頼りなく降りてきた。淡白く月から剥がれ落ちた雫のようなそれは、近付くにつれ花の形と知る。
先ほど噂した、月の花だ。
契約によって人間として輪廻に擬態する身となってからは、それを見たことはなかった。
見に行く事が出来ないわけではない。
この体から意識を剥離して、元の体を使うことは容易いとすら言っていいだろう。
これが契約における最後の人間の肉体であるから、契約の鎖は薄れ、私は大抵の自由を手にしていた。
ただひとつ契約として縛る鎖は、記憶ではなく、その寿命だ。
 ”彼”を見付けなければ…出会わなければ、等しく20歳で絶命する。
それは、これまでもそうであったから、今回が最後だとしても、それは絶対だった。

ふわり、ふわりと空気の抵抗を受けているようにこちらへ落ちてくるそれに、そっと手を伸ばす。
掌に音もなく辿りついたそれは、自分が何であるかもおぼつかないようだった。
「初めまして、月の花。此処に来たのは、終わりを伝えたいからか、終わりを繋ぎたいからか。終わりを伝えに来たのなら、私は永遠にそれを記憶しよう。終わりを繋ぎたいのなら、契約を。その対価はけして君を幸せにはしないかもしれない。それでも選べ。対価を必要とする契約か、記憶の中の永遠か。」
『…消えるの?』
「その天寿を全うすれば、君は消えるだろう。もう、月の花を知る者は人間にはいない。月の花は人間の想いから生まれたものだ。ゆえに、人間から忘れられれば、消えるしかない。もう、その命を後世に残す意味がないのだ。否、意味があるとしても、それは誰にも気付かれない。そういう命は、淘汰される。それが自然の理というものなのだよ。」
『…消えたくない…。』
幼い声は、深い悲しみを帯びている。
それは聴覚としてこの耳に届いているわけではないのだろう。
けれど確かに聴覚がそれを捉えている。
「契約は、絶対だ。君が傷付いても、この世界に絶望しても。君が君の望みを、途絶えるまでは契約は消えない。それでも、契約を交わすかね?」
自分の声が冷たく聞こえる。
この肉体は、元の器とは違い、声はそれほど低くはない。
そして、人間として生きている私は、感情を声に滲ませる事が自然になっていた。
では、今私は何を思っているのだろう。
今この残酷な選択を迫る、私は。

淡い光が、濃くなったり薄くなったりとまるで胎動しているように光を零す。
私はそれをぼんやりと眺めている。
この場所に来た時点で、分かっているのだ。
契約をするから、此処へ訪れたのだと。
この花が生まれる前に、その選択は済んでいるのだから。
それでも、私はこの花自身が答えを出すのを、じっと待っていた。
『…悲しいから。もう少し、生きていたい。』
そっと紡がれた小さな希望は、私を僅かに微笑ませた。
拙い思考が生きたいと、そう言うのだ。
だから、私はこの花をどちらにしても永遠に忘れないだろう。
いつか、消えるのだとしても。
そして交わされる契約は、恐らく残酷なのだ。
自由のようで全く自由ではない。
選択ばかり強いる契約。
だから、記憶に刻み付ける。
忘れない。
それは私が唯一出来る償い。
出来るならば、傷付かなければいい。
けれどそれは叶えられないだろう。

そして、月の花は何も知らない無垢な状態でこの肉体へ、そして刻の城へ来た。
最後の花だという記憶も、持たずに。
花であるがゆえに人の形を取らぬそれに、擬似的な肉体を与え、まるで、此処へ来た日の事は覚えていないように。
私は振舞うのだ。
そして住人達も。

花は何も知らない。
ただ自分の名前の意味が月の花という意味である事以外。
自分が何であるのか。
そして、どうして此処にいるのか。

知っているのは契約が絶対である事。
ただ、それだけ。