意味




「聞いていますか?」
始終目を合わせず返事をせず頷きもしない城主に焦れて、白く美しい医師は僅かに苛立ちを込めて聞いた。
「…聞いていない。」
ようやく返ってきた返事に、医師は今度こそ明らかに苛立ちの表情を作った。
「この病院にいる以上、好きにさせません。僕の患者である限り。」
それは二人の間ではただの確認事項だった。
城主は彼が医師になったその日から今日まで、彼以外を主治医に選んだことはないのだから。
「約束はできん。私にしか出来ぬことがあるなら、私はそれをする。何度も言わせるな。」
医師よりも不機嫌に城主は言った。
「とにかく!一週間は絶対に出しません。」
丁寧にしかし、この医師らしからぬ力強さで医師は言った。
言葉と共に拘束された手足に、城主は笑う。
「余り、侮ってくれるなよ、若造。」
小さく呟いた言葉は余りに城主には不似合いで、医師は曖昧な表情を浮かべた。
「これで、拘束出来たことが幾度ある?」
「少なくとも、全てとは行かずとも貴方を制限出来る。それには十分です。」
力を食らう金属で出来た拘束具を溜め息ひとつで受け入れた城主は、また沈黙して医師から視線を外した。
「貴方が焦るのは珍しいですね。」
幾分穏やかに医師は言った。
城主は少し目を伏せる。
「人間の時間は短すぎる。私はただの通りがかりでしかなく、必要なくなれば記憶に爪痕さえ残せぬ。知っていても、守りたいと思うのは愚かか?」
ゆっくりと零された言葉に、医師は応えなかった。
この城主の持つ時間からすれば医師の持つ時間さえ短すぎるのかも知れなかった。
「今、この最後の時に、私が記憶をそのままにあの容れ物(カラダ)に入れるのは、刻がそれを望んだからだろう。私が、私であることを。ならば私は私が出来ることをしたい。」
医師が物心ついた時、既に城主は城主だった。
悠久の時を渡る種族は珍しくない世界は、怠惰で、皆様々なことを忘れたり失ったりしていく。
だがこの城主は何も捨てず、ただ変わらずに居る。その容姿さえ、例え医師がその命を喪う日が来ても変わらないのだろう。
「ならば僕は、この一週間が表面だけでも穏やかに過ぎるのを祈るばかりです。」
医師には平穏を祈るしかないのだ。
「人は、何かの役に立つ為に生まれてきたのかね?神は、何の為にあるのだろうか?…そんな概念の問答など、生きる事とは程遠い。死する時に、気付くのかな、その事に。」
小さな窓を開けて、小鳥を招きながら城主は聞いた。
「どうでしょうか。」
「生まれて、神に無条件に愛されても、彼らには救いにならんのだろうな。」
その独り言は、思いの他弱々しい響きを持って、医師は思わず城主を注視した。
視線の先の城主は何も変わらず、そこで穏やかに在ったが。
「人は思うほど弱くないですよ。想いの強さも存在の確からしさも、人を超える種族はありませんから。」
慰めの言葉としてはあまりに稚拙だと、医師は口にしてから恥じた。
「…そうだな。それが良い悪いに関わらず、見守るしかないのだな。私は。」
それでも、過不足なく心情と言葉を受け取る事を得手とした城主は、そう応えた。
たおやかにしなる竹のように、この城主はけして折れることのないもの―例えば信条と呼ばれるそれ―を持っているようだった。
竹が暴風でいくらしなっても、けして折れないように、城主の心もまた、やがてその揺らぎを収めた。
「あの箱庭が終わる日に、私は泣くだろうか?」
ぽつりと零された言葉は、独り言とも問いかけともつかなかったが、医師は少し悲しげに微笑む。
「僕には、分かりませんが、世界の終わりにはいつだって悲しんでいるのでは、ないのですか。僕には、知り得ぬことですが。」
全ての世界を知り得ない医師は、城主の嫌そうな反応を想像しながら控えめにそう言った。
反して、城主は僅かに笑っただけだった。
「そうかもしれん。」
肯定する声は思いのほか投げ遣りで、医師は心を痛めた。
何人もこの人の孤独は理解し得ないと。
「諦めろと、言ってくれるなよ。この手からはいずれ全ては零れ落ちるのだから。諦めれば、この手で掴むことすら止めるだろう。…世界の外側の外側がなくなれば、また世界は全てのはじまりに還らねばならんだろう。その時はきっと私は彼に私を創らせない。そうすれば刻は歴史を知らぬまま流れ、全ての意味が消えていく。」
掌を見つめて、城主は言った。手首の鎖がちゃらりと鳴る。
医師は微動だに出来なかった。
動けば全てが、無に帰すのではないかという考えに囚われたからだ。
「けれど私はまだ、ここに居るし、私は世界を無に帰すつもりもない。連鎖を断ち切るつもりは。」
ふと医師を向いて城主は笑った。そこで漸く、医師は体の力を抜いた。
「貴方は変わらない。けれど、どうか忘れないでください。例え仮初の身としてもその身を案じる者がいることを。」
声は懇願に近く、城主を笑わせるには十分だった。
「善処しよう。」
分かったと約束しないことが城主らしさであり、医師は笑った。
「じゃあ、次の検診の時間に。」
そう言って去る医師の背を見つめ、城主は肩をすくめ大人しくあてがわれたベッドに潜り込んだ。
眠るという行為は致命的だと笑って、近くに置いてあった電話の受話器を取る。
「ああ、起こしてくれ。暫く眠る。」
相手が出ると同時にそれだけ告げると受話器を置くと城主は目を閉じた。
微睡みだけが傍に揺蕩っていた。