巡礼




世界の崩壊は
まるで吐息のようだった
或いは微かにそよぐ風のようだった
ただ、それだけで世界は一変した

冷ややかな冷気を帯びたままの指先でそれはそこに在る神聖に触れようとし、後1mmというところで思い直したかのように指をすくめた。
それの視線はその神聖から外される事なく、しかしその神聖―神と呼ばれていたもの―は期待を裏切るように微動だにしない。
それでも飽く事なく、それは見つめていた。
新しい世界がその神聖を必要としなくても、それには唯一の神であり、それには何の変化もある筈がなかった。

小さな影は、僅かに喉を震わす。
声を形成するには微弱過ぎるような波動で紡がれたそれが、その神なる者の名前であった事は、誰も気付かなかった。
聞く者もいなければ、その名を知る者も、この世界には存在し得なかった。
何処からか吹いた風が、それが纏うフードを浚う。
神聖からの慰撫のように優しく外されたフードの下は少女だった。

破壊と再生の後の暫くの眠りを妨げる気は、少女にはなかった。
ただそこにある神聖が、新しい世界でまた祈られる日まで、共に在りたいだけだった。
その信仰が始まる日は目覚めの時であり、少女はその日に初めて視界に入るのが自分で在りたいと願った。
それは遠くない未来である事を少女は知っていた。
それは繰り返される永遠の、その歴史が教えていた。
だから少女はただひたすらそこで見つめていた。

少女にとってそれが神であるかどうかは大した問題ではなかった。
忘れ去られるような神殿の奥深くにいることも、全ては些細なことだった。
そこにその存在があるという事実以外、大切な事などないと、少女は知っていた。

静寂と静謐だけが、大理石で作られた部屋に出入りを赦され、少女以外はそれしかなかった。

少女は時折歌った。
それが何の歌であるか少女は知らなかった。
ただ浮かぶ旋律を、例えば記憶を辿るように歌った。

長く、少女は待った。
人の時間概念を知っているとしたら、それは人が幾世代か世代を交代するだけの時間だった。
そこは更に静謐さを増し、誰もがその神殿の事すら忘れた。
それでも少女は、その神聖に寄り添っていた。
寂しい、と泣く必要はなかった。
神聖はそこに在り、少女の心と共に在った。
少女は充たされていた。

世界はまた同じように進化と退化を繰り返して、信仰が生まれようとしていた。
それはまだ自然への畏怖でしかないが、それらはやがて神を信仰する糧になるだろう事は、やはり歴史が知っていた。

人が戦を知った日に、少女は泣いた。
何を哀しむのか分からぬままに、泣いた。
ただ泪が溢れ、少女には為す術もなかった。
戦は人を蝕み、彼等は神を想った。
それが新しいはじまりであった。
少女の傍らで、その神聖は目覚めた。
少女は笑おうとしてしくじり、顔を歪ませた。
何故、笑えないのか、少女には分からなかった。

少年の形をした神聖は、少女の泪に口付けをした。
哀しみが人から生まれる事を、少年は知っていた。
それが届いているから泪している事を、知っていた。
自分の目覚めは、人が病むがゆえと知るから少女は泣くのだと、少年は知っていた。
例え少女が理解しなくとも。


少年は少女に触れたかった。
長く長い時間、少女を抱き締められない事が少年には口惜しかったから、惜しみなく抱き締めた。

彼は人の信仰を必要とした。
それがなければ彼はただの人だった。
彼はそれでも構わなかったが、人は信仰した。
だから彼は信仰の中にいた。

けれど、いつでも、はじまりからおわりまで自分に帰依するのは、少女だけだった。
そして自分が帰依するのも、また、少女だけだった。

二人はそうして生きた。
時間はそこに干渉を赦されずに黙す。
二人には必要がなかった。


ただ、もういつからかも思い出せない過去のような
或いは昨日のようなその時から
眠りに落ちる刹那の永遠のような
悠久なる未来へ


生き、続けていた。
譬えばそれは、巡礼のように。