失った声
それは、記憶に翳むほど遠い昔。
発声を禁じられた、神がいた。
声がヒトを狂わせるから。
その神の声は、甘美であり、冷厳であり、覚醒を呼び、沈静を呼ぶような声だった。
その声は、暴力であり、同時に癒しでさえ、あるのである。
神々は、その声を恐れた。
ヒトが、自分たちが、操られるのを。
そうして、神は、強制された沈黙に落ちた。
時を経て、この神は、その声帯を他のものに変えることで、声を取り戻した。
ただ、あの声はもう何処にもない。
それが正しいことだったのか、誰も知らない。
そもそも、その声が何のために生まれたのか、誰も知らなかったのである。
創造主の不在の楽園で。
創造主にさえ成り得るかもしれない声の持ち主が存在した理由を、誰も知らなかった。
その声の持ち主である神よりも旧い神を、少なくともその神々は知らなかったのだから。
だから、封じた。
そして今は永遠にその声は、返らないものになった。
少なくとも、その義園の神々は、そう思っている。
「じゃ、その声は何処かにあるの?」
せがまれて話した『御伽噺』に、天使は首を傾げた。
「さぁな。」
話し終わったのだからさっさと寝るなりどこかに行って欲しいと思いつつ、私は返事をした。
「あら、声帯を取り替えたのなら、簡単に想像つくじゃない?」
紅の着物に身を包んだ、私の半身がクスクスと笑いながら言う。
「白い、医師がきっと、ね?」
同じ構成の顔に上目遣いに見られても嬉しくもなんともないのだが。
ともかく、そういって、上目遣いに私を見てくる。
全く、やりにくい相手だ、と私は内心辟易した。
横で寝そべって話を聞いていた天使は、そっかぁなどと言って納得している。
「あくまでも、『御伽噺』だ」
ぼそりと呟いた私に、半身はまたクスクスと笑う。
「でも、何となくホントにあった話っぽいよね」
天使までも、じーっとこちらを見てくる。
「…知らん。」
面倒になって、私はソファから身を起こした。
もう、昔の話なのだ。御伽噺として語れるほどに。
「もう、謳わないの?」
立ち去ろうとする私の背中に半身の声がかかる。
「もう、謳えないのさ。声帯がない。それで満足か?」
振り返って天使を一瞥して、部屋を出た。
天使はきっと困った顔をしているだろう。
私とて、己の声帯が生む音の塊が、呪われたもののように、或いは祝福されたもののように在るとは思わなかったのだ。
数多く戒められた中で、唯一永遠に失った声。
私はもう、謳いたいとあまり思わないのだ。
この声は、所詮仮初に過ぎないのだから。
―――塔へ続く回廊を歩いていると、どこからか、唄声が聞こえた。
天使が又、月に祈りを捧げているんだろう。
今日は恐らく、自分の為に。
それも悪くない、と、空に張り付いたそれを見て、少しだけ救われた気がした。
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